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もうすこしで天竺

ある崖っぷち人間の読書備忘録。

カフカ「流刑地にて」

昨日読み終えたブッツァーティの『タタール人の砂漠』で、流刑地について言及があった。そのつながりで、今日はカフカの短編「流刑地にて」をさささと読んでみた。タイトルがすごく好きだったので、その存在は前からよく知っていた。

 

孤島の流刑地を訪れた旅行者。見せられるのは、奇妙な処刑のための機械。将校はこれから囚人を処刑するという。この機械と処刑方法に愛着を抱く将校は、この機械は時代遅れなので廃されようとしているが、どうかこの「伝統」を守るために一肌脱いで欲しいと旅行者に頼み込む。だがこの処刑方法と審判の方法が残虐だと考える旅行者は、それを拒否する。将校は囚人を赦し、自らが処刑のための機械に入る。

 

タタール人の砂漠』の砂漠よりも、ずっと明白に不条理。どう感想を持ったらいいのか困るほどに。

 

おそらくとっかかりになるのは、この短編が「流刑地」を舞台としていること。囚人がそこにはいるはず。だが処刑されようとしている囚人は元兵士で、内地で罪を犯して送られてきた人物ではない。その兵士が、上官への無礼という、あまりにも軽い罪で処刑されようとしている。

さらにそれを赦した(一言で、あっという間に、誰にも相談せず。罪を裁く権利があるらしい)将校は、なぜか自分が処刑される側となることを選択する。思い入れのある機械が時代遅れとなったからと書かれてはいるが、あまり説得的ではない。

彼が「処刑」されることによって、それを間接的に促した旅行者も罪人ということになる。その場に居合わせた兵士も、囚人に勝手に食事を与えるという罪を何気なく犯している(上官への不敬で処刑されるなら、この兵士も極刑に値するはず)。さらに、そのあと訪れた喫茶店では、住人が前司令官の墓を足蹴にしている。これも不敬のはず。

 

結局、罪人でない人間は一人もいない。これが流刑地なのか。

しかも、軽いはずの罪でさえ、極刑と同じ重さを持つ土地。

だから流刑地では、誰もが「死刑囚」である。

 

この作品が何を描いているか判断するのは読者に委ねられていようが、『タタール人の砂漠』と同様の示唆に富んだ物語だという気がする。

 

カフカ短篇集 (岩波文庫)

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